世界の中心地東ローマ帝国の政治とビザンチン文化は近代の幕開け

  • 2019.06.06 Thursday
  • 16:05

JUGEMテーマ:国際社会

 


  古代社会の転換点だったビザンチン文化とアラビアの知恵の館
    〜シナは金は集まるが世界の中心とは相違、政治には精神豊かな教養と柔軟さが大事

 

 

 

時勢と教養が人を作った開国の明治時代

 

Wiki>>勝海舟 「二宮尊徳には一度会ったが、至って正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作る例はおれはたしかにみたよ」


江戸期の終わり頃からいろんな分野で活躍した日本人が多い。才能ある識者と気概のある武人も多く、欧米人は企業的な貿易依存の傾向もあり植民地にされることも無かった。時勢に対応できたと言うべきなのだろう。

ただ、最近は貪欲な欧米人やシナ人に警戒する素養・教養が無さすぎるところが多い気もする。

 


日本では、江戸末期には藩校や寺子屋もあり儒教だけでなく国学や蘭学なども吸収してたわけだ。ま、水戸藩の弘道館のように一部は思想に走り過ぎて過激行動に出ることもあったが・・


「尖閣と言わず、中国ごと日本人に任せよう」=ある会社代表の過去のツイートが物議―中国
   http://www.recordchina.co.jp/b604550-s0-c30-d0135.html  

   2018年5月28日 / Record China
   〜考えが変わって文盲とゴロツキの混合体である人民英雄にはもう興味が失せたから

 

しかし、シナ人は清朝の崩壊で警戒心も軍閥的素行が強すぎて、科学や近代経済に取り残された。調べてみると、識字率も低く旧態の書院という私学部門が清朝末期?に閉鎖されてたともいう。


まして、シナ社会は仏教でも厳格さ一辺倒で寛容さが無いように、融通さより対立軸を作り煽動することも多い。書籍文化も少ないシナでは、更に官職目当てや思想的に走る傾向が多いのかもしれない。


史書も作られたものも多く教養や哲学も不足していたから、新興地主の毛沢東氏や名家である周恩来氏が近代に方向づけ出来なかったのが、建国の不幸であった・・ 大躍進政策では突貫で欠陥だらけのダムを作り、1975年8月の板橋ダム決壊事故というのもあり知識人が少なかったと言える。そもそも、シナ人は社会・政治論に関心も無く無知に近かったと言うべきなのだろう。

 

 

 

古代から戦争だらけであったアラビアで、長期政治だった東ローマ帝国

 

シナも歴史ある地域だが、世界と比較するような長期政権が無い。豊かだったのは、唐の時代と宋・南宋ぐらいだろうか。悪政の皇帝が無かった清朝では、やや文治や教育にかけていたのかも。


世界は、中世もカトリックの独裁崩壊や大航海時代などから乱世でもあった。ところが、中世以前に長期政権が続いた「 東ローマ帝国 (395年 - 1204年 ・・1453年) 」というのがあった。ただ、当時西欧では「 ギリシャ帝国 」と言われてたらしい。


しかし東ローマ帝国時代は「ビザンティン文化」といわれ、西欧のルネサンスにも相当な影響を与えたと言う。そもそも、あの目まぐるしい王政が入れ替わった西アジア・中東で、まして戦闘好きな古代ギリシャ人が居ながら長期政権なのである。王朝末期には、イスラム教に押され縮小するが、東西交易ルートの要衝でもあったらしい。
ま、古代の戦乱好きは、その後に西欧らに移行するが・・

 

 


政治が柔軟で、安定した社会が生まれビザンチン文化が隆盛

 

そのビザンティン文化は古典も残る中、叙事詩や宗教詩・宗教音楽、ビザンティン小説、哲学書などの文学作品がある。文化が繁栄すると言うことは、社会と生活が安定してたということだろう。同時に、スンニ派のイスラム教も出来た時代、そのスンニ派のアッバース朝(750年 - 1258年 ・・1517年)もやや長い。


この東ローマ帝国(トルコ)には、正教会の本山もあり、安定の核ともいえる。以下、>はWiki

>「文明世界全てを支配する帝国」であり

    「キリストによる最後の審判まで続く、地上最後の帝国」
> 正教会において教義の最終決定権はあくまでも教会会議にある

> 都市部の市民の識字率は比較的高かったため

     ギリシア人の一般民衆でも『聖書』を読むことができた


バチカンが皇帝のように振る舞い、一方的に教義を決定したカトリック教会と違うともいえる。

マリア賛美も、この正教会の教会会議?
>431年のエフェソス公会議では、神の母・乙女として賛美されることが認められた


さらに、地震の年表(Wiki)によると、東ローマ帝国に地震は有ったろうが、首都周辺は巨大地震が無かったようだ。

そして、社会は階級社会なんだろうが、政治は寛容さ・柔軟さが有ったように感じる。当然ながら、豊かである前提にイスラム勢力ら侵攻勢力が多い地域であり軍事も馬鹿に出来ない。


>知識人・官僚・聖職者が一体となって支配階層を構成していたのも大きな特徴である
>皇帝は臣下の物質的幸福を、総主教は精神の安寧を司り、両者は緊密に連携し合うもの、

  とされていた
>政治体制は周囲や国内の状況に合わせて柔軟に変えられていた

>東ローマ帝国の養蚕伝来
  絹織物産業は、1204年に帝国が滅亡するまでの650年間、東ローマ帝国の経済を支え続けた


総じてみるとシナ王朝時代と違い柔軟さが有り、宗教が乱れることなく精神性があった。文化が総じてあることからも、自由と言わないが秩序と寛容さがあると言える。文学も流行ることは、シナみたいな規制や虚偽な習慣はないのかと・・

 

 


ギリシャ語・アラビア語の史書らが、当時の世界を変えた

 

古代にはエジプトにアレクサンドリア図書館が有った。その後、東西交易ルートの要衝である東ローマ帝国には多くの図書が集まり知識人が成長していたのである。東ローマ帝国の崩壊時には知識層がローマに亡命し、ビザンチン文化が持ち込まれ西欧のルネサンスに影響を与えたらしい。

( 帝国末期に古代ギリシャ文明の賛美に偏向し過ぎか? 地中海・オリエント文明の気もするが )

 


元々イランのサーサーン朝(226年 - 651年)には宮廷図書館があった。それを引き継ぐ形で、スンニ派イスラム王朝アッバース朝 ( 750年 - 1517年 )の第7代カリフ・マームーンが、諸文明の文献を翻訳する図書館「知恵の館(830年〜1258年)」をバグダードに設立したとある。

 

>また、使節団を東ローマ帝国に派遣して文献を集めることもあった。
>古代ギリシアからヘレニズムの科学や哲学などの伝統が、

  イスラム世界に本格的に移植・紹介され、独自の発展をたどることとなる。
>哲学関係の書をアラビア語で読み書き

>国家事業として、医学書・天文学(占星術を含む)・数学・・、哲学関係の文献・・など、

  ・・・膨大な書物が大々的に翻訳

最後に出来たイスラム教であるが骨格がしっかり体系化され、王朝も安定してたようだ。


同時期にイラン高原には、
シーア派分流ニザール派ハサニ・サッバーフが「アラムート城−図書館(1094年〜1257年)」建設。

 


その後、知恵の館・アラムート城はモンゴル帝国軍に破壊される。しかし、イラン高原に出来たイルハン朝(1258年 - 1353年)では『集史』や『世界征服者史』が編纂されて、イラン・イスラム世界、モンゴル帝国の発祥と発展が記録され極めて重要な文献となる。


マリ帝国(1230年〜1600年)の至宝アフリカ中央部のトンブクトゥも、イスラム世界の「知の都」といわれアラビア語書籍の普及が感じられる。トンブクトゥもマリ帝国以前は、8世紀(4世紀頃とも)から11世紀に、黒人王国ガーナ帝国でこの地は興隆し莫大な富が集まる重要都市だった。今では、「トンブクトゥ写本」という記録が多くあり、黒人文化は未開で無く教養も高度・・

 

西欧のギリシャを起源とした優越的な思考が横行するが、この古代から続くアラビアを中心に記録された知財が有ったのは紛れも無いだろう。視点を戻し研究されれば新発見もされ、新たに古代の遺産が発掘されることも相当にあり得るだろう。

 

 

 

東ローマ帝国時代のギリシャ語の史実文献らは、イスラム王朝アッバース朝にアラビアの言語と人で解釈しなおされる。更にアラビアは、古代オリエントらの科学などを学び直し、更にアラビア科学数学を進化させて、近代科学の礎になったかも・・ 伝説的な錬金術師、化学の祖ともされるジャービル・イブン・ハイヤーンもアラビアが生んだという素地もあった。そして、天文台も併設した「知恵の館」は天文学に取組み、バビロニア数学・天文学などが復活したかのような感じも・

(アラブ・イスラムの尊厳性からギリシャ文化嫌いの影響も、科学・数学の隆盛は意外と長い)

 

>イブン・アル・ハイサムは経験知や実験観察を重視し、

   そこから帰納法的な推論を用いて理論を打ち立てた最初期の科学者である

彼の手法−科学的方法は、著作に学んだ西欧科学者らに受け継がれたらしい。その後、アラビア語で書かれた史書・哲学書などの書籍は周辺文化圏に普及、学問や文学が世界で進化したと思われる

 

> ローマの没落とともに、西洋でギリシャ語の読み方がわかる人も少なくなった

>イスラーム哲学者たちがイスラム教の文脈の中でギリシア哲学を解釈し直した

>それが中世盛期(High Middle Ages)にヨーロッパに伝播し、

>アラビア語からラテン語への翻訳を通して、ギリシア哲学が西洋で復活した

・・・・


そもそも、アラビアが生んだ功績は歴史的遺産であった。その恩恵と知見を知るユダヤ人らは欧米に多いが、感謝の精神や行動も無くイスラムに偏見を助長しるような状況で存在価値が疑われる。イスラム誕生後、富を略奪する古代的精神が欧米に移る訳だが、まして宗教が乱れる中で西欧白人らの文化の真髄は疑わしい。

 

 

 

そして現在、邪心で世界の中心とか騒ぐシナであるが、隆盛した文化とはシナ社会のような脆弱さでは発達する訳も無い。それは寛容な東ローマ帝国の社会が作る政治と、多くの周辺国との交易・交流から生まれた時代が進化したのである。


シナのような独善的・ファシスト的な政治と力はなにも生まず、古代精神では社会は進化もしない。そして、記録は残るだろうが、社会の安定と公平な意見無くして発展と知財は生まれない・・ 当時、宗教と社会が安定していた東ローマ帝国・バグダッドのアッバース朝を中心とした文化の影響が現代に及ぼした効果は計り知れない。

 

< 追記 6/14 >

地理的には、

  ・東西を結ぶルートに経済の中心地

  ・知の中心地を結ぶいくつかの聖地

  ・存在をわきまえた政治体制と穏やかな精神性を支える宗教

があり、知と政治と宗教のバランスが経済も支え豊かな寛容な社会を作っている。生活と経済には、政治・宗教・知識層のバランスが必要である。しかし、シナのような独断的な政治、イランのような尖った宗教体制といったものは、成長の妨げになり生活と経済に悪影響といえる。

 

言えることは、教養が生む姿勢が適度に周辺国と対峙する政治経済軍事の姿勢も作り周辺国との相乗効果を生みだす。覇権ありきだと、多くの人が富む周辺地は衰退を招く恐れもあるのである。

スポンサーサイト

  • 2019.09.18 Wednesday
  • 16:05
  • 0
    • -
    • -
    • -
    コメント
    コメントする








        

    PR

    calendar

    S M T W T F S
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    recommend

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM